第24回総会・記念講演(2012年6月16日、札幌全日空ホテル)

肥田舜太郎

95歳内科医が語る

ヒロシマからフクシマへ(要旨)

肥田 舜太郎(日本被団協原爆被害者中央相談所元理事長)

ひだ しゅんたろう: 1917年広島市生まれ。1943年日本大学医学部卒業。1945年広島で被爆し、直後から被爆者の救援にあたる。以来、6千人以上の臨床体験をふまえて「原爆ぶらぶら病」とよばれる症状や、低線量・内部被曝の影響に関する研究にも携わった。著書に「ヒロシマを生き延びて」「内部被曝の脅威」など。

今日は北海道の皆さまに、私が経験した広島の沢山の死んでいった人たちの死に様をお話ししながら、放射線の恐ろしさとこれからどう生きるかという問題について、私の考えをお話ししたいと思います。

広島陸軍病院の軍医として

私は28歳のとき、広島の陸軍病院の軍医に招集されまして、そこで働くことになりました。原爆が爆発した1年前の8月1日に広島にまいりました。

当時、日本は15年戦争を戦っていて、もうだんだん負けがこんで、とても勝つ見込みはない。どういうかたちで収まるのかということが気になる状態でした。

日本の大都市はほとんどアメリカの空軍による空襲で焼け野原になりましたし、沢山の人間が殺されました。ところが広島だけは、飛行機は毎日来ますし、空襲警報は何度も鳴りましたが、不思議なことに、弾が1発も落ちなかったんです。

陸軍病院では、中国や南方から傷ついて帰ってくる、あるいは病気で帰ってこられた軍人の患者がいっぱい収容されてきます。なかには重症があります。

空襲警報がなると、病室からその重症患者を担架にのせて、18、9歳ぐらいの若い看護婦さんが、70キロもある重い体を2人で担架をもって2階から階段を下り、病院の外まで出て、病院の庭に掘ってある防空壕の中へ下ろすんですね。大変な重労働でした。でも最後のころは、何回やっても、弾が1発も広島に落ちませんから、そのうちに、防空壕の中へ入らず、入り口に担架をおいて、みんな寝転がって青空を見てたんです。

あとでアメリカへ行って調べてみたんですが、広島は戦争が終わる3年前に、原爆を落とす標的第1号に指定されていて、そのため、飛行機は行くけれども、弾は絶対に落としてはいけないということで、原爆用にとってあったというのが私の実感です。

私がいた病院は、爆心地からの距離で350mと、ものすごく近かったんですね。500m以内で助かった人はほんの何人かしかいないといわれています。ですから、病院にいた597名の職員と患者さんは、3名を残して即死いたしました。

子供の往診で助かった

私もいれば当然、こんなところへ今頃出てきて話なんかできなかったんですが、全く偶然のことですが、その日の夜明けの2時に、たまたま私は下宿でなくて病院に泊まっていました。そしたら6キロほど離れた戸坂村という村に農家がありまして、その農家の6歳の子供が心臓弁膜症の発作を起こして苦しんだんですね。

無医村です。その子供を、ちょうど広島へ着任して1週間目か2週間目に、その村で行事がありまして、陸軍病院からそこへ出張して、そのときにたまたまお医者さんが来たからその子を診てくれと、診た覚えがあるんですね。

その家のおじいさんが戸主で、ずっとその子の面倒をみていたんですが、何かが起こったらあの先生に頼もうと、私が下宿で寝るか、病院で寝るかを毎日確かめていたんです。その晩たまたま病院にいるということが分かったので、病院へ自転車で午前2時に来ました。病院の衛兵を頼んで一緒に私の寝てるところへ来て、頼むから診てほしいというんで連れて行かれたんですね。自転車の後ろにまたがされて。それで私は助かったんです。その子が命の恩人でした。

行きまして、夜中ですが、何かかにか一所懸命やって、発作は収まりました。で、帰りたくても6キロ、真夜中ですから、乗り物はありませんし、結局子供の隣に布団を敷いて、仮寝をさせていただいたんです。

私は7時に起きて病院に帰るつもりだったんですが、寝坊して8時に目が覚めました。子供をみたらスヤスヤ寝ています。でもまあ、私がいなくなる、おじいさんは畑へ行ってる、だれもいなくなると、子供ですから、目を覚ますと泣き出します。泣くとまた心臓の発作が起きると思って、夕方まで寝かせておこうと思って、鎮静剤の注射を取り出して準備を始めました。

注射器の中へ液を吸い込んで、針を上へ向けて中へ入った空気を出すんですね。子供の枕元で、開け放した表から広島の空が見えます。

そしたらちょうど広島の上空にB29という大きなアメリカの爆撃機が1機入ってきました。記録によると3機来たんですが、私はそのとき1機しか見ませんでした。でも今までの例では、弾を1発も落としてないし、たった1機で来てますから、偵察で帰っていくんだろうと、気にもとめずに、子供の手をとって注射をしようとしたんです。その瞬間に爆発したんですね。

真っ赤な火の輪とものすごい爆風

注射器も何も放り出して、子供のそばへ、畳の上へパーッと伏せたんです。目を覆って。だけど爆発もなければ何の音もしない。シーンとしてるんです。おかしいと思って目をあけて空を見たんですね。そしたら広島の青空の真ん中に真っ赤な火の輪ができました。

これを見て生きてる人は多分誰もいませんから、私しかしゃべれないと思うんですけど、真っ赤な火の輪です。指輪のような、赤い火の輪が空中にできました。その輪の真ん中の青空に白い雲の固まりができまして、これがどんどん大きくなるんです。そして最初にできた輪に中からパッとくっついた瞬間に、その雲が大きな火の玉になったんです。ものの本には「火球」と書いてあります。直径が700mです。ちょうど目の前に、西に沈む大きな太陽がパッとできたような感じでした。

そしてその真ん中、その頭はどんどん雲に乗って上に昇っていくんです。青空というのはキリがありませんから、どこまでも昇っていくんですね。それが最後に傘を開いて、きのこ雲という雲になったんです。

ところがあれは、「きのこ雲」と書いてありますが、あの写真は後から来た飛行機が撮ったんでしょうけれど、爆発後、かなり時間が経ってから撮られているんですね。私はその瞬間を見ましたから、広島に向かって火柱が、広島市はだいたい直径が4から5キロぐらいありますが,それぐらいの幅の火柱が、五色に輝いて、とってもきれいでした。

それを見ているうちに、遅れて爆風が来たんです。あのときの爆風というのはすごい力で、木造の2階の広島市内の家が瞬間に屋根からペシャッとつぶされたんです。つまり横倒しになって吹き倒されたとかそういうのじゃないんです。真上から、ぺしゃんこになる。だから中の人はひとたまりもない。家の中へはさみ込まれちゃう。それで動けない。そこへ火が出て焼き殺されるという被害でした。

天井は飛び上がるし、私は縁側近くから家の中で吹き飛ばされる。5mぐらい吹き飛ばされて、突き当たりの壁に叩きつけられました。ところが目のうえに天井があって、天井が私の見てる前でバアッーと持ち上がって、あの大きな藁葺きの屋根がドーンと噴き上がりました。青空を見たのを覚えてますから、屋根が開いたのは間違いないんですね。それで叩きつけられて屋根が落ちてきて、農家の藁葺きの屋根の下には泥がいっぱいあるんです。

その泥がもろに落ちてきますから、子供は崩れた家の中に泥で埋められたんです。でも必死になって起きまして、子供を探しました。幸いにすぐ目の前に泥に埋まっていたけど、手が出てたんです。その手を引っつかまえて、骨が折れるかどうか分からないけど、無理やり引っこ抜いて、子供を抱えて表へ出てみました。

農家の前に平らな庭がありました。そこへ子供を寝かせて泥を払って、耳をつけて心臓の音を聞いたんです。何も聞こえないんですよ。おかしいと思って、よく考えたら耳の中に泥がいっぱいつまってた。それを掘って、もう1度聞いたら、病気の心臓の音ですけれど、ちゃんと打ってる。ああ生きててよかったと。

おじいさんは朝早く起きて、畑へ行ってるんです。大きな声でおじいさんに、「子供はここにいて大丈夫だよ。俺は病院へ帰るからね。自転車を貸してもらうよ」と怒鳴って、それでも不安だったから、子供のほっぺたをピシャピシャとたたいてワーッと泣き出す。泣き声が聞こえますから、そう思って自転車を借りてそのまま村の中を突っ切って街道へ出て、ちょうどきのこ雲に向かって走ろうとしたんです。これがこわいんですね、とっても。ものすごい大きな雲ですから。その下は大変なことが起こっている。そこへ向かうんだから軍人でもこわいですよね。できたら、誰も見てないから後ろ向いちゃおうと何度も思いましたね。でもそれはできないと、自転車に乗って一所懸命走ったんです。

県道で焼け死んだ人間に会う

ちょうど広島まで半分ぐらいまで来たときに、日本海へ出る、松江へ行く県道なんですが、そこだけかなり長い距離、直線で下りになるんです。何度通ってもそこは自転車でブレーキをかけながらそーっと行かないと、突き当たりのところで川がカーブして、ついてる道もカーブする。こっちからは山の岩影になるんで、そこを回るときに何か出てくるとこわいんですよね。

当時は自動車はなかったから、来るとすると、馬か牛が引いてる荷車だけなんです。むしろ荷車のほうが始末に悪いですね。そばを自転車でパッと通りますと、びっくりして暴れますから。暴れた牛や馬に跳ね飛ばされて川の中へ叩き落とされる。

出ちゃ困ると思っていたら、その曲がり角から、変なものが1つぼっと出たんです。何だろうと思って自転車でいったら、砂利道ですから揺れるでしょう。何だか分からないんですよ。ただ、馬や牛じゃないんですね。小さい。縦に長いから、どうも人じゃないかと。でも遠くから見てると、夏ですから人ならば白いものを着てる。ところがその人は上から下まで真っ黒なんですね。

おかしいと思って、だんだんいくと、ボロをまとってるんです。夏の暑いときにね。足はボロの中に入っていて見えない。手をこうやっているんですね。人間だろうから顔はどうだろうと思って一所懸命みるんだけど、顔がどうもはっきりしないんです。男だか女だかも分からない。どんどん近づいていくと、声を出してるんです。ウッウッという。そして顔はあるんですけど、目が2つ、おまんじゅうみたいに膨れてる。そして穴が空いてる。鼻がないんです。ここから下は全部口なんです。上唇と下唇が腫れ上がって。こわいです、この顔は。

そばへ来て「助けてー」とやられたらどうしようと思って。だからだんだんスピードを落として、とうとう自転車を降りて、いつでも逃げられるように、後ろへ下がった。本当にこわかったんです。

そしたら私が後ろへ下がるもんだから、相手は、初めて生きた人間に会ったんですね。だから足を急がしてだんだん近づいてくる。仕様がないから私は自転車をそこへおいて、ごめんなさいといったまま後ろへ下がって、しがみつかれないようにした。そしたら、私のおいた自転車にけつまづいでペシャーッと倒れたんです。

ああ、この人は生きた人間だった、ごめんなさいというんで、そばへ走っていって、ひょっとみたら、ボロを着てると思ったら、ボロじゃない、素っ裸なんです。ボロだと思ったのは本人の生皮がはがれてぶら下がってるんですね。こんなのも初めてです、見たのは。うつむけになってる背中は一面のやけどです。道路を逃げて来たから、真っ黒けにほこりが付いてる。ガラスの破片が背中に小さいのが刺さってる。しょうがない、立ったまま、触れないです、どこも触るところがない、焼けてて。

ですから「しっかりしてください。もうちょっと歩いて行けば、這っていけば、村があって、人がいるから、もうちょっとがんばって」というようなことをいって、見てるうちに、足元でけいれんを起こして動かなくなった。息が絶えたんですね。

おそらく広島の北の端で被爆したんだと思うんです。そこからこんな体で逃げ出してね、やっとこさ歩いてここまで来て倒れて死んじゃった。これが私が被爆者の死人を見た最初です。

こんな人が出てくるようじゃ、あの中は大変なことだ、早くいかなきゃならんと思って、自転車を引っ張り出してまたがっていこうと思って向こうを見たら、私はこの人ばかり見ていて気が付かなかった。道がそんなに広い道じゃありませんけど、その道にいっぱいそういう人が、つかまってくるのもいれば、いざってくるのもいる。這ってくるのもいる。とてもその中を、広島まで続いてるに決まってるから、「ごめんなさい、わたし広島へ行きますから」なんて、とても通れたものじゃない。

太田川に飛び込んで広島へ

道路の右側は崖になっていて下を太田川という川が流れている。左は山の斜面で、ちょうど家はないんですね、広島までは。そこで目をつぶって、川の中へ飛び込みました。飛び込んだらちょうど腰ぐらいまでの深さだった。こっち側の岸の土手の下を一所懸命歩いて、川の中を歩いていけば広島の市内へ入るんですね。歩いていくと、真っ黒な雲がぐっと押し寄せてくる。広島は今燃えてるんですね。その黒雲が川を這ってきて、何も見えなくなるんです。

どんな小さな火事でも風が吹きます。広島は今街が燃えてるわけですから、暴風のような風が吹いてくる。それが川の水をドシャーッと噴き上げるんですね。頭を下げると頭から水を浴びながらどんどん行く。結局広島の一番北の端へたどり着いて、そこで市に入るには、石垣を登るか、あるいは土手を登るか、とにかく登らないと市に入れない。あるところまでたどり着いて、さあ、上へあがりましょうと思ったら、上の大きな部隊があって、砲兵隊という部隊があって、それが爆発して燃えてるんですよ。その火のために、頭の上に建ってる民家が、ちょうど今ボーボー燃えているんです。その燃えてる火の中から、今焼けたばっかりの人が上半身裸で川へ飛び込むんです。飛び込むというよりは、要するに逃げて、落ちるんですね。7、8mの高さがあるんですけど、その上から人間が降ってくるんです。私が立ってるところにドバーンと降ってくるんです。

なんぼでも落ちてきて、足元を見ると、先に落ちた人が、浅いところですから、何人か死骸になって重なってるんです。その上へ落ちるものだから、はねるんです。落ちてはねて、あっちこっちの川の中へドボーンとはまるんです。はまって、元気な人は、もがいて起き上がって、川下へ逃げるんです。あるいは横切って向こう岸へ逃げる人もいます。落ちたとたんに流れていっちゃうのもいる。

その真ん中に突っ立ったまんま、入ることもできない、後ろを向いて帰る気もしない。前で死んでるわけですからね。医者ですから自分だけさよならというわけにはいかない。人間というは正しい理性みたいなものが何をすべきだということはささやくんですよ。

ところが、ささやくのは、ここにいてもお前は何をすることもできない。道具もなければ薬もない、免許証をもった医者が川の中に突っ立ってる。何時間経ったって何もできんと。だからお前はここから、もと来た村へ帰れと。逃げてく人がみんな村へ入るから、そこでお前は医者の仕事をしろと、ささやくんですね。

ところが目の前にそういう人がいるでしょう。さよならという気がしないんですね。あれぐらい人間というのは決心がつかないものだと、後になって思い知りました。

しばらく立ってても、どうあってもここにいても無駄なことだということが分かって、とうとうある人に手を合わせて拝んで、後ろを向いて、川を上って帰ったんです。道は歩けません。こういう人ばっかりいますからね。途中でとっつかまっちゃう。

戸坂村へ引き返す

それで村へ帰りました。帰ってみたら、爆風で村の家はほとんど、屋根が飛ぶか、傾くか、崩れてるんですね。だから逃げてきた人は村へ入っても、家へ入るところがないんです。何もない。だからみんな小学校へ逃げる。道路の端にある小学校まで行ってみると、もう道路と校庭の境がないんです。村の道路がそのまま校庭になってる。ざっと見ると千人ぐらい、逃げてきた人が中へ入ってるんですね。ほとんどは倒れてました。医者と名のつくのは私一人で、ざっと千人ぐらい倒れてる。どうしたらいいか、全然思いつかないんですよ。ボヤッと立ってたら、村の幹部が崩れた校舎のわきに、5、6人固まってるんです。村長、学校の校長、助役、お巡りさん、消防の人、和尚さんがいて、みんな僕を見て駆け寄って来て、「この状態だから、肥田中尉殿、なんとかしてつかわさい」と。

俺は今広島まで行って見てきた。端っこを。これから何万人ここへ逃げてくるか分からない。西へ逃げた人と東へ逃げたと、南は海で逃げられません、ここは北へ逃げた人は全部ここへ来るから、僕が軍医学校で習ったことは、1度に大量の患者を受け持った場合は、治療よりなにより飯を食わせることを考えろと、そういう講義を聴いたことがあるんです。

それを思い出して、これはみんな飯を食わさなきゃいかんと。村の土蔵に軍隊の米が預けてある。それを私が責任もってハンコつくから、その米を全部出せと。そしてできるだけ沢山むすびをにぎれと。村のおばあさんがすぐ出て作ってくれたんです。で、寝てる人のところへ持ってってみると、だれ一人むすびの食える人がいない。口のところが焼けちゃってる。手も焼けてるから、むすびが持てない。

それでびっくりして、全部回収して、今度はおかゆを作ったんです。おかゆをバケツに半分ぐらい入れて、小学生の男の子が2人でそれを持つ。女の子に杓子を持たせて、寝てるところをずうっと回って、上向いて寝てる人の口の中へ黙ってこれを入れてこいと。するとじいさまが米のないときだから、「死んだと見えるのは入れるなよ」なんて余計なことをいって。

そばに行って、焼けただれた人の顔を見たら、こんなのできっこないと女の子が泣き出しちゃう。何もすることがないんです、薬がないから。やけどの治療をしようにも。

当時はやけどの治療は、日本中の病院も先生も全部間違ってたんです。当時は硼酸亜鉛華軟膏という、白いねばねばしたのを塗り付けるというのがやけどの治療だったんです。

今はそれは間違いだと分かって、やけどの治療はどんどん水で冷やす、それがいちばんいい治療なんです。それを知らないから、軟膏を塗ろうと思ってもないでしょう。思いついて、農家がみんな内緒で持ってる天ぷらを揚げるなたね油、軍隊の命令だからみんな出せといって出させたんだけど、内緒で持ってるとっておきのやつを出させて、それを鍋だとかいろんなところへあけて、古着の雑巾のもとみたいのをみんな出してもらって、女の子にそれをもって油をつけて、寝転がってる患者さんの、背中だろうが顔だろうが、焼けてるところへみんなつけて歩けと、教えてやらせたんだけど、やっぱりこわくてできないんですよね。焼けてるから。

救急の仕事を始める

そのうちに僕みたいな軍医が、病院へ行く途中で被爆をしたんですね。自分もケガをして、病院まで行こうとしたけど火で入れない、結局僕のいる村へみんな集まってきたんです。

その村で、逃げてくる被爆者を扱うことになった。村の記録によると、最初の晩、6千人来たそうです。で、翌日は1万2千人になる。その翌日が1万8千人になった。4日目の朝、2万7千人。そこまで村は勘定したんだけど、あとは分からないんですね、なんぼ来たか。

初めの晩は医者が僕を入れて4人です。それで翌日になると方々からボツボツ集まってきて、14、5人の人間で何万人という患者に対応した。だから何もできなかったというのが率直なところです。

ずいぶん乱暴な治療もしました。おばあさんが大きなコンクリートの塀の下に手をはさまれて倒れたんですね。娘さんが助けようとしてもどうしても助けられない。しばらくたったら火が出てきた。そしたら何人かの男が通りかかって、おばあちゃんを引っ張り出してくれた。それを担いで来たんだけど、診ると骨が折れて外れてるんですね。皮だけでつながってるんですよ、手が。私は内科の医者で分からないんですけど、このままにしておいたら腐っちゃうから、どうしてもここから外さなきゃならない。触ってみたら皮だけしかないんですね。それなら俺でも切れると思って、皮を切って手を離した覚えがあります。

そんなことがあって、結局その村で私はずっと患者を診たんですが、最初の3日間は全部やけどでした、死因は。それ以上は分からないんですね。あんだけ焼けてれば死ぬに決まってる。学校で教えてるのは、3分の1が焼けると人間は助からないと。ところが半分ぐらい焼けてますから、一目見てもうだめと。

4日目から急性放射能症が

ところが4日目の朝、状況が変わったんです。内科の症状が出て死んでいったんです。その内科の症状というのは、見たことがないんです。なぜかというと、前日に九州と四国から応援の医療班が来て、先生も20人ぐらい、うちの村へ来てくれた。看護婦さんが100人も来たんです。薬をいっぱいもって。それから病院には衛生兵も100人来たと思います。

逃げて来た人はどこに寝てるか。道路なんです。家には入れませんから、道路に寝てるんですね。道路はどこを歩いても患者さん。小さな村ですから、村じゅうの道路という道路にはみんな寝てるんです。そこへ看護婦さんがたくさん来て、僕らが行けなかったところまで全部回ってくれたんです。それで回って1人ひとり見て歩いた。

そしたらある看護婦さんが、「軍医殿、熱が出ています」と。発熱というのは、集団の場合、こわいですからね。何の熱かと思ったら「40度を超えてます」と。内科の医者で40度をこえる熱というのはまず見たことがないです、普通は。

戦時中ですからマラリアの患者が帰ってきます。これがマラリアの発作を起こすと40度を超えるんですね。それからチフスの場合、いちばん重症になると40度を超えるんです。でも普段は見たことがないから、何だかよく分からないけど診にいくんですね。

そうすると、まず一目見て顔が焼けてるでしょう。鼻と口から血が出るんです。だらだらと。非常に不思議だったのは、皆さん、あかんべえをすると、赤いところ(眼瞼結膜)があるんですね。ここから血が出るんです。これは僕は初めて見ました。先々になってから眼科の先生に、ここから血液の出る病気はありますかと聞いたら、そんなものはないというんです。

それともう1つ、熱が出てるから扁桃腺がきっと腫れてる。扁桃腺が腫れると非常に高い熱が出ますから。それを見ようと思って向こうの顔の前へ私が顔を向けると、臭いんですよ、そのにおいが。普通の口の臭いなんていうのは我慢できます。あのときのにおいは我慢も何もできないです、臭くて。僕の医者としての常識では口の中が腐敗してるんですね。本人はまだ生きてるのに、なんで口の中だけが腐るのか分からないんです。

でもまあ、農家から借りてきたさじで「大きな口をあいて」というと、苦しくてもあいてくれます。それで瞬間にパッと見ると、口の中が真っ黒なんです。普通は桃色か、炎症を起こせば赤くなるんです。ところが、真っ黒なんです。要するに腐ってるんですね、口の中が。この理由が分からない。本人が生きてるのに。

そして起き上がってもういっぺん本人を見ると、周りに寝てる人が自分の手をこう上げて、肘の内側を指さすんです。ここを見ろという意味なんですね。何人もそれをやるから、患者さんの焼けた手を持ち上げて、そこを見ると、紫色の斑点が、ちょうど鉛筆の頭に紫のインクをつけてポンポンとやると、ちょうど同じようなのができます。

これは学校で習っただけなんですけど、血液の病気で入院した人が重症で臨終になる、もう2、3日でおしまいというときにこれが出るというのを先生に習ったのを思い出したんです。見たことはないんですよ。それでなんでこの人にも紫色の斑点(紫斑)ができるのか分からない。これが全部の人に出てくるんです。

それから、本人が寝てて、もぞもぞ動くでしょう。で、頭に手をやる、なんとなく。そうすると手を触ったところの毛がすっと取れるんです。今、本を見ると「脱毛」と書いてあります。あのとき被爆者はみんな脱毛したと書いてある。これは脱毛なんてものじゃないんですよ、取れるんだから、すっと。見たことがない。

あのとき死んだ人は最後、みんな頭が真っ白になった。坊さんが頭を剃るときは毛根細胞というのは残ってますから、青いんです。ところがあのときは毛根細胞ごとなくなっちゃう。だから頭が真っ白けなんですね。これは何人も見ました。これが抜けてなくなると死ぬんです。だからいやでも印象に残ります。毎日毎日、そういうのが続きますからね。原爆に遭った人は、みんなこうやって死ぬんだなと。

だから口が腐ること、高熱が出る、紫斑が出る、まぶたから出血する、頭の毛が取れる、この5つがそろうと、みんな死んでいくんです。この5つは忘れません。

あの年の暮れまで、丸5カ月、そういう患者ばっかり診てたんです。だから、被爆のときの急性放射能症といって、直接頭から強い放射能を浴びた人の死に様です。

だから私は、放射線の被害を、急性期から、その次に慢性期というのがあって、最後にガンや白血病で死ぬ、おしまいまでずっと診させられた。6千人診たんですね。

アメリカ信用ならず

だから政府や専門家や何かが、体に入った放射線は微量だから全然障害は起きないということを、直後からアメリカが宣伝をして、日本の政府もそういう。われわれ現地でやってる人間もアメリカのこれは軍事機密だ、触ってはいかんと、そういう布令を受けた。私たち医者にとっては患者の命がいちばん大切ですから、目の前の患者を殺しておいて何をぬかすと思って、そのときからアメリカ信用ならずというんで、そのときから反米活動を始めました。

腹が立って、こんな爆弾を使ったというのにまず腹が立つんですね。次に治そうと思ったら治らないで死んでいくと。それでこれは原爆のせいではないということを盛んにいう。ふざけるなと。俺はここでずっと診てて、「自分は、軍医殿、原爆は浴びておりません」というのがたくさんいるんですよ。その日はいなかったんです。で、翌日になって広島は大変だというんで帰ったら、焼け野原で自分の家もなかったと、家族がどこへ行ったか分からないというんで、一人で焼け跡を、おかみさんが通ってた工場がある、子供は小学校へ行ってる、1つひとつみんな追っかけて何日も焼け跡を歩いた。こういう人が発病してくるんです。これは本人が言う通り、原爆には遭ってない。だから原爆の被爆者じゃないんです。跡を歩いて何か影響が残っていて、それで発病する。何人もいるし、みんな後から来た人を見れば、僕の頭の中に2つのタイプができる。

1つは直接爆発でやられた人。もうひとつは、翌日とか3日後とか1週間後ぐらいまで入った人から病気が出る。これは僕らは、今のように内部被曝という言葉はありませんから、市に入って被曝した入市被曝という名前をつけて整理をしてきました。だから原爆の被害には、直接焼き殺された人、押しつぶされた人、これは物理的にやられた。これは核兵器の高熱で焼き殺される。それから出た放射線で殺された。急性の放射能で殺される。それから慢性の放射能症がある。最後にガンや白血病で最後のとどめをさされる。この区別が、何年もやってると自然にできてきます。

手こずった慢性放射能症

一番手こずったのが慢性放射能症。つまり原爆には遭ってないけれど、後から市に入って体がおかしくなった。どうおかしいかというと、かったるくなる。ある日、急にかったるくなって、だるいと。立ってられない。起きていられない。それでやむを得ず寝るんです。すると起きられない。何日か経って少し良くなったからといって起き上がって仕事をする。農家だと鍬をもって畑へ行くと、2つか3つこれをやったらぶっ倒れそうにだるいんで、母ちゃん、悪いけどおれ寝るからねといって家へ帰って寝ちゃう。

外から見るとどこも何ともないんです。それなのに、ある日突然だるいと言い出して起きれなくなる。なかにはそのまま寝たきりになって、2年も3年も寝てて死ぬ人が出てくる。

これは医者として説明のしようがないんです。どこを検査しても、だるいという根拠になる症状が見つからない。尿を調べても血液を調べても。結核かもしれないと思ってレントゲンまで撮ってみても何も分からない。

当時のあの時代の医学で、できる限りの検査を全部やって、何回も聴診器を当てたり、お腹を触ったり、どこにも異状がない。僕一人じゃなくて、診る医者、全部そうなんです。

そうすると、本人がだるいというだけで、客観的な証拠も何もない。僕は広島で近所の人を見るんだけど、遠くへ兵隊さんで帰った人がいる。向こうで発病するんですね。新潟とか青森とか。そういうところで、父ちゃん、そんなに悪いんならお医者さんに行ってきなよと。みんな無医村だったんですけど、満州から医者が戦争が終わって帰ってくる。開業しますから、お医者さんが帰って来たから診てもらいなと、みんな行くんですけど、行っても、どこも何ともない。病気は見つからないよといってくれればまだいいんです。あんたには病気がないというんです。

本人は農家で忙しい。母ちゃんも働いてるし。分家だから本家からうるさいのがいっぱいいるでしょう。広島から帰ってきた何のたれべーは、広島へ行って怠け者になって帰ったらしい、母ちゃんがいくら言っても、かったるいといって動かない、これはおかしい、あれは仮病だと。医者へ行ったら、医者は病気はないと言ったと。当時の言葉でノイローゼ、神経衰弱という診断書がついて帰ってくる。

だから本人は、具合が悪いといくら訴えても誰も信用してくれない。頼みに思う肉親もだめ。あと勤め先だろうがなんだろうが、あいつは広島へ行って変になって帰ってきたと、どうも仮病くさいと、噂が立つ。

男として仮病といわれて、社会の信用がなくなったら、生きていけません。どこへ行ってもそう言われるわけだから。それで、こらえ切れなくて自殺をした人が何人もいました。

私はそういう患者を、分からないまま、東大に紹介したり、有名な先生のところへ紹介状をつけてやっても、みんな神経衰弱と帰ってくる。病名はつかない。

30年経って国連に訴えに

なんと、30年続いたんですよ、そういう状態が。1975年に、私が初めてアメリカへ連れて行ってもらって、国連へ訴えに行ったんです。いっぱい患者がいて、全然病気が分からない。日本の医者は治しようがない。アメリカが占領してから,アメリカが来るまで1カ月あったんですね。その間、日本の大学の先生やみんなが現地へ入って、いろいろ研究してくれたんです。その研究した資料をみんな没収しちゃったんです、アメリカがね。我々が調べたことをみんな取り上げちゃった。ますます我々は分からないわけです。

そのことを訴えて、国連の力で世界中の専門家を広島に集めて、患者を実際に見ながら、日本の医者に教えてくれと、どうしたらいいか、頼みに行ったんです。ところが、当時は第5福竜丸の問題で日本が沸騰していたときです。核実験やめろという代表団が、国連へ訴えに行ったんです。それに連れて行ってもらったんです。みんなは核実験をやめろと。事務総長は、「よく分かりました。皆さんのおっしゃることを国連のしかるべき機関にかけて討議をしてみたいと思います」と。

ところが、ドクター肥田のもってきたシンポジウムを開いてくれというこの要請は、残念ながら受け付けられませんと。エエッと思ったね。

7年前の1968年に、アメリカと日本政府が連名で国連に、「広島、長崎の原子爆弾の医学的影響について」という報告書を出しているんです。国民は全然知らないんです。その中身に何が書いてあるかというと、原爆投下から23年後です。

今日ただいま、日本の国民の中で原爆の影響を受けて死亡した人間は全部もう死亡し尽くした。全部死んじゃった。現在はその影響で起こったと思われる病人は1人もいないと書いてあるんです。日本人は現在、全部健康で原爆の影響なんて全くありませんという報告を、アメリカと日本政府が出していたんです。

僕らは知らないんです。いっぱいいるんだから、なんぼ見てもキリがないほど患者はいるんです。おかしい、ウソだというんで、がんばった。向こうは公式の国の書類をもらっているわけだから、個人の医者が何をいったって、やっぱり国の言うことが正しいと。お気の毒だけど、ドクターのいうことはこれに照らせば事実じゃないとしか判断できないと。で、自分は先約があるからさよならといって、行っちゃったんです。これはこのまま帰れないから、代わりの人間を出して、分かってもらうまで談判したいと。そしたら、軍縮局長という人が代わってくれたんです。

彼に私が追究した30年間、ずっと絶えていない病人の話を具体的に話したんです。こういうふうに発病して、こういう症状になって、何年前にこうなって、そして今日現在はこうなっていると、5、6人の症状をずっと話して、ウソでもなんでもない、事実なんだから来て見てくれと。国連の力で助けてほしいと。

そしたら、彼は物分かりがよくて、分かったと。じゃあ、おまえは今日から日本へ帰ったら、沢山の人の助けを借りて、被爆者の中で、現在入院しているもの、お医者さんに通院しているもの、そういうのを全国くまなく調べて、その表を1年後ここへ持って来いと。自分たちも国連の力でどうなっているかをもう1度再調査する。それで来年この時期にここで両方が会って、同じような状態が分かったら、お前のいう通り、1977年、2年後に、シンポジウムを必ず開くと約束を取り付けて帰ったんです。

それで1年間、死に物狂いでやりました。被爆者は隠れていて、自分が被爆者といわないんです。それをいろんなところから聞いてたずねていって、門前払いにされるのをやっとこさ頼んで訳を話して、今の健康状態を聞いて歩いた。

1万2400人の報告を作りました。それを翌年持って行きました。向こうも調べたら、病人はいないというのはウソだというのが分かったんです。それで1977年に本当に広島と長崎と東京の3カ所で、世界のベテランが来てシンポジウムをやる。それまで政府がウソをついていたのが、ほとんど正確な数字が出てきた。

しかし、日本の医学界のえらい人が全部内部被曝はないと、アメリカの言う通りだというふうに染まってますから、私一人がいくらしゃべっても取り入れてもらえないんですね。だからその会議では内部被曝というのは認められなかった。そのまま今日までずっときたんです。

原爆症認定を求めて集団訴訟へ

2002年から2007年まで、自分の病気は放射線の影響でこうなった、だから政府にそのことを認めてくれという認定の申請をする被爆者がいっぱい出ました。でも、おまえの病気は放射線と関係がないといってみんな却下になるんです。不思議と、直接被爆をした、爆心地に近いところで被爆したのは通るんですよ。ガンや決まった病気についてだけは。

ところが、後から市に入ってそういうふうになった人は、なんぼ重症でも絶対に認められない。そのことで断られた人間が年を取って、もうじきお墓へ行くと、自分は。死んでからじゃ間に合わないんだから、生きてる間に、私の体がこんなになったのは原爆のせいだということをどうしても政府に認めさせて死にたいというのが300人集まって集団で裁判をやったんです。その裁判が、大阪とか広島とか、本人の本籍のあるところでやりますから、28カ所の裁判所で裁判をやった。

最初の判決が出たのが大阪です。大阪の9人の被爆者が訴えた中に3人、当日いなかったという人が入っていた。弁護士さんはみんな、この3人だけはなんぼがんばっても通らないと。直接被爆してないのはアメリカの指導で通らないということになっていると。でも私は通して見せるというので、まず弁護士さんをみんな、一晩泊めて、徹夜で教育したんです。

というのは、弁護士さんが私を裁判官の前で尋問するんです。素人の裁判官によーく分からせるために、順序を立てて話さなくちゃいけない。だから聞くときは、まず最初こう聞いてくれ、次はこれと、7問ずっと決めておいて、これは絶対に間違えないでこのとおり聞いてくれと。

それでその通りやった。だから僕の裁判官への話は、被爆者の体が放射線でどういうふうに悪くなっていくか、私はこういうふうに見た。証明としては外国の症例、本が、私が訳したのがこれだけあると。全部証拠として出しておいた。

僕が感心したのは、大阪の裁判官は、その本まで全部読んでるんです。判決文の中に、その本の中からある文章を引用して、こういうふうに書いてるところがあるから、肥田証人の今日の証言は真実だと認めるという文書があるんです。それで勝ったんです。直接被爆してない人まで含めて通ったんです。トップで通ったから、やっぱりその影響でみんな次々に右へならえで、みんな勝っちゃったんです。

初めて内部被曝、または入市被曝が有害であるということを、アメリカの言い分を押しのけて日本の裁判が認めたということで、これは画期的なことになった。

でも今の政府は、裁判にそれだけ負けていても、自分たちは間違っていたとは絶対言わないんです。今でも新しく被爆者が認定申請を出します、同じふうにやっぱり却下です。全然反省してない。ということは、安保条約の中で、やっぱりアメリカからこの問題だけは絶対にゆるめてはいけないというのが来てるんですね。いまだに原爆放射線の被害については軍事機密だというのは生きてるんです。

福島事故と被爆者の経験

今度の福島の場合は原発ですから、原発というのはほとんど内部被曝です。チェルノブイリのときは爆発だから直接被曝もあったけど。今度は漏れて出たやつだから、内部被曝ですね。

これも知られたくないんです、アメリカは。だからこれも「安全です」というのが出てくるんですよ、テレビに。おかしいというのは1人も出ないでしょう。出してもらえないんです。いまだに放射線については、アメリカの強い圧力がかかっている。

これから、僕の経験によれば、3年目ぐらいで内部被曝の恐ろしい症状が出てきます。ですから、非常に心配なんです。

いま日本全国の若いお母さんが、もう九州まで、北海道は今度初めて来たから知りませんが、恐らく何人か、赤ん坊がこうなったという人がいるだろうと思う。全国に放射線は行っていますから。だから今どこへ講演に行っても若いお母さんがいっぱい来ます。そしてどうしたらいいかという話を聞きたいと。これに答えられる人間は、世界中に1人もいません。

ただ私は、自分も被爆者ですから、日本の被爆者の団体に加盟をして、私がした仕事は、要するに放射線にはやられたけれど、まだ病気が出ないで元気でいるというのがいっぱいいますから、この人たちに発病させない、一生発病させなきゃ、そのまま長生きできるわけです。みんな勉強をして、自分の持ってる命の主人公は自分なんだから、絶対に発病させない、健康な体で生きるということを勉強して努力して生きようじゃないかという運動を30年やりました。

そして被爆者に全部、自分の住んでいる場所で、被爆者であろうとなかろうと、とにかく長生きしているという人を探して、そこへ行って、あんたはどうしてこんなに長生きしたんだという話を集めてこいと。

すると何万という全国から経験がいっぱい集まりました。その中で共通して一番多かったのは、食べ過ぎないことというのが圧倒的に多かった(笑い)。これは医学的に見てもその通りなんです。その次にはトイレの行き方、寝方、働き方、遊び方、セックス、あらゆる問題について、私はこういう注意をしたというのが集まってきた。これをまねようじゃないかというんで、それをパンフレットにして、1冊100円ぐらいで作っては、みんなに勉強させたんです。

おかげで80、90歳まで長生きしている被爆者が21万人の中に沢山います。だから皆さんに私が話すのは、先輩である放射線の被害者がそうやって長生きをはかったと。人に頼んだんじゃない、自分が自分の命の主人公になって、だれにも頼らずに自分が生きることなんだという講習会をやって、みんな守った人は長生きしています。

こういうところで話をすると、必ず「何、食べたらいいんですか?何がだめですか?」と聞かれます。何を食べてもいいんです、毒でないかぎりは(笑い)。人間が今まで食べてきたもので悪いものというのは1つもありません。何が悪いかといえば食べ方が悪いんです。

昔から食事の時間というのは、自分で果物を取ったり、獣を捕まえたり、魚や鳥を獲ったりして生きてる頃は、自分の食事は自分で働かないと誰も面倒を見てくれなかった。だからみんな重労働で、くたびれた。

みんなの前で堂々と休める時間は食事の時間だった。みんな一緒に食事をするこの時間は堂々と休める。つまり食事の時間というのは、栄養をとると同時に体を休める時間なんです。今このことを守っている日本人は1人もいない。集まると夫婦ゲンカが始まる。子供は親に、この前買ってくれといったのにまだ買ってくれないじゃないかといさかいの場になる。

ほんとうの意味でゆっくりリラックスして、お互いにいやな思いをさせないように、楽しい話題をつくって、できれば笑顔でゆっくり時間をかけてご飯を食べる。これが一番大事なことなんです。休息の時間だということを日本人は忘れてる。

大昔の人は、光もなければ熱も持ってなかった。だから太陽が沈むと真っ暗闇で何もできない。寝るしかない。だから昔の人は、太陽とともに起き、太陽とともに寝たんです。今は,テレビぐらい見てもいいでしょう(笑い)。でも寝る時間が来たらピタッと寝る、これが大事です。

朝は、会社へ行く人、畑へ出る人も、太陽と一緒に起きる。そういう生活の中で人間は自然の放射線と紫外線にたいする免疫を作ってきたわけですよ。その条件を外して、夜中まで煌々と電気をつけて起きていて、朝になったらグーグー寝る、こういう馬鹿げた生活をいつの間にか強いられるようになった。ここを治さなければ、日本人はどんな形をとっても、僕らみたいな長生きはできない。

というのは、成人病の出る年齢がどんどん早くなっている。年を取ってなけりゃ出ない病気が、若い間からもう始まってる。生活の仕方が違う。だから今生きてる人間が、人類が地球のうえでいろんな困難に耐えて、減らないで増やしてきたということは、生き方が大まかにいって正しかった。なかにはどんどん減っていく動物もいっぱいいる。人間だけはまだ増えている。

自然放射線と人工放射線

当時の先輩が、何人も若い時から殺されながら免疫をつくって、ようやく生きられるようになった。皆さんが毎日耳にするウソの中に、現代人は、たとえばニューヨークまで2回往復すれば、たっぷりと自然放射線を浴びる、いま福島の人が浴びている放射線の量はそれと同じだから、絶対心配ない、こういうウソがある。

自然放射線に対しては、たしかに人間は免疫をもってきた。大人は全く影響を受けません。毎年生まれてくる赤ん坊の10万人に2人は、まだ自然放射線の影響で先天障害をもって生まれてくる。これがまだゼロにできない。でもそこまで我々はたたかって、40億年の間に免疫を作ってきた。

ところが、今出ているのは、工場で作った放射線なんです。これは人間は全く免疫をもってません。だから自然放射線はなんぼ浴びても心配ないけど、人工放射線をちょっと浴びればものすごい反応をする。子供だったら、へたすりゃ殺されるということを、みんなが知らないと思って、心配ないとウソをいうのです。

まともに僕と2人で向かい合って、あなたはこのことをどうしてみんなに教えないんですかといったら、頭をかいてムニャムニャになる。おそらく反論できません、常識なんだから。

そういうウソまでついて、放射線の影響は大丈夫だと。そして原発をどんどん復活させて金をもうけたいというのが本心なんです。

皆さんはほとんど全員が体の中へ放射線はもう入ってます。事故を起こしたから出ているだけじゃないんです。起きる前から、普通のときに原発という工場は、電気を起こしながら、放射線を漏らさなければやれないような構造になっているんです。だから普段から出ている。

世界中からニューヨークに集まって、3年にいっぺんやるんです。この3年間はどこまで漏らすことにしようかと相談しているんです。それでどこの国にいっても、その国の言葉で、安全許容量、安全に出す放射線をみんなで認めるという名前の安全許容量というのが各国にあって、そこまでは全部が堂々と漏らすんです。

なぜかというと、原子炉の真ん中は、厳重に防衛されていて絶対にあそこからは漏れないようになっているんですが、工場の建物は5つも6つもある。全部管でつながってるんですね。中を冷たい水がはじめ入ってきて、原子炉で熱くなって、放射線もいっぱい入ったのが、今度は次に建物を回って流れていく管があるんです。この管の材料が、放射線にも熱にも全く大丈夫というのは世界中でまだ作れないんです。

だから売っている管は、どんなに高い、一番いいやつを使っても、1年か8カ月でだめになる、放射線が継ぎ目とかからみんな漏れるんです。だから防ぎようがない。それを無理にゼロにまで防げというと、できないことはありません。管をたとえば3カ月にいっぺん全部新しいのと替えれば漏れなくなる。知ってるんですよ。

それをやれというと、それをやったら、自分のところでつくる電気代がこんなに高くなる。隣では火力発電、水力発電をやって、これより1銭でも高くなったらうちは売れないと、商売上がったりだから、みんなと同じぐらいの値段で売らせてくれと。そのためには、ここまでは防ぐけど、これ以上やれといわれたらもう無理ですと。

安全許容量の安全というのは、浴びた人間の命の安全ではなくて、原子力発電所の経営の安全の限度なんです。それ以上やったら高くなって売れなくなる。それが安全許容量なんです。

これは直接、世界にそういう言葉で発表してるんですよ。僕は質問してびっくりした。命のことをこれだけ考えていますという答かと思ったら、いえ、命ではありません、会社の経営の安全ですといわれて、エエッと思った。そういうものなんですね。

だから、原発を、またぱかぱか始めたら、平素に漏れ出る放射線で、周りに害がどんどん増えます。本人は癌になったけど、なんでなったか分からない。疑い深い人が、どうもこれは発電所のせいだといって、癌の診断書と一緒に政府へもっていって、私はあの放射線で癌になったから何とかしろといったら、証拠はどこにありますかと。これはおかしな話だけど、その癌をいろいろ調べて、これはまちがいなく放射線のせいだという学問がまだないんです。だから殺すほうは完全犯罪です。なんぼ殺しても証拠は上がらない。結果が出るのは何年も先でしょう。

きょうその町へ行って、放射線を浴びたら、3日後に死んじゃったという人が何人も出てくれば、あれがくさいというのはすぐ分かるんです。ところが、20年も30年も経ってから死んだんじゃ、証拠が上げられない。だから殺され損。そういう日本に今皆さんは生きている。

すべての原発の停止と核兵器の廃絶を

明日からどうしてもやってもらいたいことがある。こういう放射線で汚れた日本をつくったのは、あなたがたなんです。戦後なんです。

僕ら訳を知ってる人間は大反対をした。だれも反対してくれなかった。俺とは関係ないやという顔だった。こういう関係ができちゃった。だから皆さんも、その責任を感じてほしい。誰に感じるか。これから生まれてくる皆さんのひ孫ややしゃご、これがまだみんな顔を見ていない。

かわいそうに、おじいさん、お父さん、お母さん、おばあちゃんの世の中へ出よう、幸せになろうと思って生まれてくるのは、この汚れた世の中です。いやでも放射線の影響を受ける。命が縮む。病気も出る。

これを何とか防いでやらなきゃ、僕らの子孫がかわいそうじゃないか。そうした責任は、今生きている我々にあるんだから、死ぬまでの間に、皆さんが自分の残りの命を懸けて、みんなで力を合わせて、すべての原発を止める。これが皆さんの死ぬまでの義務なんですよ。

皆さんのひ孫、やしゃごにたいして、どうしてもやっておかなくちゃいけないことなんです。皆さん以外にやれる人はいないんです。あの原発をつくるときに黙っていた皆さんが止めなくちゃいけないんです。はっきり皆さんにこのことは申し上げて、全力を挙げて僕らの子孫のために原発は止めて死んでいただきたい(笑い)。

もう1つ、もっと悪いものは核兵器です。これこそあって何の役にも立たない。これは人類のためにやめさせる。この運動も一緒に。なかには、つべこべ言う人がいるの。使っちゃいけないけれども、持ってることでこの60年間、核戦争は起きなかったじゃないかと。だから核兵器は持たせておけば核戦争を防止するからいいんだと。

この人の知らないことはどういうことか。核兵器を持つためには、相手もあるんだから、相手より絶えずいいものをつくる。しょっちゅう作りかえている。そのたびに原料であるウラニウムを掘る。それを工場で精製する。そして原爆をつくる。そのどの瞬間にも、周りに被害を与えて、死人をつくっているわけです。

それを知らずに、持ってるだけなら害はないと、勝手に自分で思い込んでるだけの話なんです。あんたはそれで間接的に人を殺しているんだよといわれて、エエッということになる。

だから核兵器ももちろんだめです。原発もどんな便利で、どんな理屈をいってもだめ。1基でも自分のコントロールを離れたらどうすることもできないんです。今漏れてる放射能を明日止めなさいといっても止める方法がないんです。

少量ずつでも毎日出ているんです。私は2年経っても止まらないと思うけど、仮に2年間出たら、どれぐらいの放射能が日本全国にいくかと、面積割にして平等に降ったとして、おたくのここへはこれだけ降るよということを玄人なら計算できるんです。みんなが心配するから言わないだけなんです。

だから、原発や核兵器に賛成するという側には絶対に皆さんは立たないでほしい。それから子供にも、大きくなる間で核というものは人間には場合によっては役に立つことがあるなんていう論理にだまされないように、子供さんにもきちっと伝えていくということ。今日初めて聞いたのなら、今日学んで、それを明日から行動で示して、日本中の人々が一致してそっちへ向かうように、北海道の九条の会と反核医師の会がわざわざ私を呼んだ根源は、北海道から核の問題は根を切りたいというお気持ちがあって呼んでいただいたんだと思う。

だから、どうか、今申し上げたことを、ご自分のこれから残る10年、20年、30年、50年、まだ60年、生きてる方もいるかもしれない。そういう長さの中で、自分のさける時間をまじめにさいて、行動でなくす方向に努力をするということを約束していただきたい。そのことをお願いして、私のお話を終わらせていただきます。

<質疑応答>

【質問1】 昨日の新聞で、弘前大の内部被曝調査の要請を福島県が断ったということです。本当は行政はむしろ研究者の支援をして、内部被曝の実態を細大漏らさず明確にしてほしいのですが、このような行政の姿勢や動きを、先生はどのようにお考えになりますか。

広島、長崎の被爆の直後からの政府の姿勢と全く同じです。当時と変わりません。これは私の判断ですけど、バックに、原爆の被害も含めて、アメリカの軍事機密がある。一切触ってはいけないといったアメリカの意思が、今も同じように働いている。

というのは、アメリカの国内では、日本よりももっとひどい言論統制で、核兵器とか核エネルギーについては、何びとも勝手にしゃべることが許されない。しゃべってると必ず刑事が来るという状態が今でもアメリカはあるんです。

アメリカの核を造っている勢力は、非常に今神経質になっている。世界中で核の評判が悪い。つまり核エネルギーは人間には良くないというのが、だんだん増えてくる。前はアメリカの唯一の友達で、同じ立場をとっていた英国の医学界そのものが、アメリカのいうことは間違ってると、内部に入った放射線は非常に恐ろしいというのを、イギリスの子供の白血病やガンの統計をあげて、離れたんです。そういうこともあって、非常に神経質になっている。

アメリカの植民地と思われている日本は、どこでもそういう状態で、今の野田政権、あれは大臣になればみんな後ろから羽交い締めにされている。

今は福島が、いろんな噂があって、知事以降、役人がみんな、住民が福島から離れちゃって、税金払う人がいなくなって、自分の退職金はどうなるんだろうかと心配しているというのが事実で、逆に政府と一体になって、もう福島はきれいになった、何も害が残ってないと上から締め付けているんです。

ところが私の心配は、脱毛する婦人がだんだん今増え始めている。これは隠しようがないんですね、女の人は。ほおかぶりして表へ行かなきゃならない。そういう意味で、被害が私が予想した通りの方向へ、少しずつ始まってるなと思っています。

【質問2】 福島県で、子供たちの集団疎開が行われていますが、これについて、どういうふうに思われますか。

正式に集団疎開が起こってるんですか。今度の問題の対応で、もっと早くやらなきゃいけなかったのが、小学生と中学生は戦時中の強制疎開と同じように、国が責任を持って斡旋をして、受けるという地方自治体にお預けする。期限は今の福島の発電所から放射線が出なくなるまで、止まるまで離す。これが何より大事だと私は思っている。

もう何回政府に言ったか。文科省にも、あらゆる省へ1つひとつ全部話しかけたんだけど、どこも聞かなかった。それは将来に残る禍根だろうと思います。

というのは子供のときに受けた放射線は、知的な発育も抑えるんです。アメリカにそういう統計があります。アメリカは高校から大学へ行くときに、全国共通の国家試験みたいなものをやります。この成績が、大きな核実験をやった年に生まれた子供がその歳になったときの成績の平均ががた落ちする。統計上はっきりあるんです。つまりその年に生まれたときに大量の放射線が降って、それに被曝した子供の知的な発育が統計に現れるように成績が低下する。それが今アメリカで大問題になって、やっぱりアメリカでも、核エネルギーを安直に利用するのは良くないという意見が非常に強くなっている。こんど裁判が起きましたね。強制疎開させなかったことの裁判です。結果がどうなるか分かりませんけれども、政府は怠慢だったと、私は思っております。

【質問3】 先生ご自身のことですが、肥田先生は、ご自分の内部被曝の問題からどのように心身ともに立ち直られたのでしょうか。

皆さん、私が元気に見えるからそう思われるのでしょうけれども、放射線被害というのはね、そのときに体に入った放射線と、その人のそのときの体の健康の条件で決まるんです。だから同じ場で2人並んで、同じ原爆の被害を浴びたのが、片方は3日後に死んだ。片方は75歳までピンシャンして働いた。こういうような例は無数にあります。そのときの本人の生きている健康状態、非常に複雑ですから、全部明らかにすることは今でもできないんです。違いがあって、片方は長生きする、片方はすぐ死んじゃう。広島では、こういう例はいやというほど聞きました。

なぜそういうことが耳に入るかというと、2人は親友だったと。お母さんもお友達だった。こっちが死んだあと、お母さんどうし友達だからしょっちゅう会うわけでしょう。そうすると死んだ方のお母さんは、何でうちの子だけ死んでと必ず言うんですよ。するとこっちのお母さんは耐えられなくなって、結局広島を出て行く。それぐらい、同じところに並んで同じような被爆をして、結果が180度ちがう。

だから放射線の被害は1人ひとり違うんだと。あっちは助かってこっちがおかしくなっても、相手に文句を言ったってしょうがないんです。自分のからだが悪かったということなんです。

【質問4】 福島原発事故を考えれば考えるほど、日本の原発をすべて廃炉にしなければならないと思いますけれども、原子力の平和利用という名目で原発を容認してきたのは推進派だけでなくて反対運動の一部にもありました。先生はこの原子力の平和利用について、どうお考えですか。

私は自分がおかれた立場から、平和利用というのはありえないと初めから思っていました。ずっとその考えは変わりません。平和利用を導入した動機は、いろんなことをいう人がいます。つまり核兵器を造るということを受け止めてもらうためには、一方で平和利用という形で放射線に慣れさせる。そしてある勢力にとっては絶対必要な核兵器を造り続けることのできる世論をずっと維持していくために導入されたという説明がありますが、私は一番正しい説明だろうと思っています。

もう1つは、ウラニウムを原料として原発で電気を起こすと、必ずプルトニウムも出て来ます。プルトニウムは原爆の原料なんですね。これを独自に原爆のために作るとなると莫大な金がかかる。発電のときに自然に、もういいっていうくらいできますから、それをうんと作ってもらえば、核兵器を造るという仕事が、原料という意味では安直に続くというのが大きな理由としてある。

だから北朝鮮が造るとか、イランが内緒でやってるとか、みんな気にして、核兵器を造るんじゃないかといってますけれども、本人達は、電気が起こしたいからということを言ってる人達も沢山いるわけだから、あれはおかしなことです。やるなら全部で造る。いけないなら全部やめる。自分らもやめる。これが道理でしょう。俺の認めた奴だけは持っていい、それ以外はいけないと、こんな我がまま坊主のいうようなことを世界で他の国が、ああよく分かりましたなんて顔していることがおかしいんです。

そういう歪んだ今の世論形成を、やっぱり日本は被爆国なんですから、正論を張って、世界の先頭に立つというのが日本の役目だろうと思うんです。ところが半ば向こうのお手伝いをするようなことに今なってるのが、私は情けない。皆さんの力で被爆国らしい正しい態度で、世界の世論をリードできるように、日本を変えていっていただきたいと思います。

【質問5】 個人的な質問ですが、家族で茨城県に高校生のお嬢さんを連れて行かなければいけない。福島に近くて心配なんだけども、少しでも放射性物質を体に入れないように、どのように防御をすればよいでしょうか。

ご心配になる気持ちは分かりますけれども、実際に茨城県に何日おられるか知らないけれども、ひとつでも放射線が体に入らないようにするのは不可能ですから、そういうご心配はしないほうがいい。本人が憂鬱になるのと、不安になるだけの話で、実際の効果は何もないと思います。そういう心配をするよりも、日本中の子供が被害を受けないように、原発を止めるということが、日本人として当たり前だという考えに早くなっていただきたい。うちの子供だけはといくら考えたって、それができるはずはないんですね。

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